STATEMENT

読みにきてくれてありがとうございます。

主宰の1人である中村桃子です。


このページでは、自分たちは何をするユニットなのか、どんなことを考えているのかを示すために、ステートメントなるものを書こうとしました。


他の団体との違いはどこにあるのか、強みはなんなのか。

自分たちの立ち位置を相対化して、肩書を明確にして、はっきりとしたビジョンを語ることができれば、nanamomoをこれから知る人にも活動を理解してもらいやすい。

そのほうが新しい仕事も入りやすくなるかもしれない。

そこががふわふわしていては、結局「よくわからない人たち」で終わってしまう。


でも、書けませんでした。


正確には、書いてみたりもしましたが、生きた言葉ではないような気がしました。

プロフィールの経歴は難なく書けました。それは事実の整理だから。

でもステートメントは情報ではなく宣言だから、生きた言葉じゃなければ意味がないと思いました。


なぜ生きた言葉を書けないのか、という理由を考えると、たぶん、思いやビジョンが足りないからとかではなくて、主語を無理に「私たち」に統一しようとしていたからだと思います。


団体としての声明を出すとき、それは誰の言葉なのか、ということをふと考えます。


ほんとうは、誰か一人が代表して語るのがわかりやすいのかもしれません。でもそれは、団体の言葉では無くて、その代表者の言葉です。

あるいは誰かがベースとなる文章を書いて他の人が意見を出して添削するという方法もある。

それぞれが書いたものを持ち寄って、共通点をピックアップして編集する方法もある。

でもどれも、「私たち全員」の言葉にはなりえませんでした。

他の人が読んでもわかりやすい綺麗な文章になるほどに、それぞれの言葉の匿名性が高まって誰の言葉でもなくなっていきました。


私たちは現在3人で活動していますが、それぞれが持っている価値観は異なります。

個人活動ではなく一緒に活動しているのは、その方が新しい景色が見えたり、遠くまで行けるような気がするから。


それなら、ひとりひとりの言葉を別々に載せた方が誠実かもしれない。


ということで、この案内文は中村が書きましたが、これはあくまで導入です。


初心に返って、私たちが一緒に何かを創ろうとしたときに交わしたそれぞれの言葉を載せたいと思います。

わたしが見ている景色をあなたにも見てほしいし、あなたが見ている世界を、わたしも知りたい

中村桃子

なんで演劇をやっているんだろう、なんで演劇じゃなきゃいけないんだろう、ということを考え始めると、正直、明確な答えは出ない。

ほんとは、演劇じゃなくても良いのかもしれない。

文章を書くのもすきだし、写真を撮ることもすきだし、打楽器を演奏するのもすき。 ほかの表現方法でできることにも、興味がない訳ではない。

というかむしろ、別の分野にも挑戦してみたくはある。「演劇をしないと死ぬ」とは、思っていない。たぶん。

だけど、自分の中で熟成したり発酵したりくすぶったりしているものがあって、それらをそのままにしておくのはモヤモヤするし心が死ぬ、とは思っていて、だから、その形の無いものを何らかの形にアウトプットして見つめ直しているとき、「生きている」と実感できるのだと思う。そして、わたしにとって最適なアウトプットが、“今のところ”は演劇で。

最初の動機はきっと、誰かのため、ではなく、自分のため。

誰かを感動させたいとか、社会を変えたいとか、そんなのはおこがましいし綺麗ごとだ。作品に触れる前と触れた後で鑑賞(観賞)者に何らかの変化が起こりうるとしても、それは結果論でしかなくて、わたしは、わたしたち作り手は、自分なりの生き様を通して、哲学をすることしか、問いかけることしかできないと思う。

自己満足の極み、と言われてしまえば、そうなのかもしれない。

でも、そうとはわかっていても、私たちは世界の中で、社会の中で生きているから、ひとりきりで生きているわけではないから、自分が気持ちよければいいやという自慰行為で終わりたくはなくて。その問いかけから始まる世界を信じたい。

演劇を通して、他者と出会い、対話をして、過去と今と未来を見つめたい。

ここではないどこかを、今ではないいつかを、自分ではないだれかを見つめながら、同時に「いま、ここにいる、わたし」の輪郭をなぞって、この世界を切り取ることができるのが、わたしにとっての演劇だ。

有限の人生の中で目にすることが出来るものは限られているけれど、そんな中で、わたしが見ている景色をあなたにも見てほしいし、あなたが見ている世界を、わたしも知りたいと思う。

わたしたちが社会で生きる理由を、演劇を通じて考えてみる

星野奈々

あんまりやりたいことってありません。人に認められたい欲以外ない自分は、何のために生きてるんだろうと思って、色々考えました。

こんな時代だからこそ好きなことしなよっていう大人もいますが、果たしてそれでいいのか。そんな疑問と、このカオスな世の中を放っておいてまでやりたいことが自分にはないこと。その二つで、やっぱり自分は社会を無視して演劇できないかもしれんなあととても困った。

今の 20 代前半の、世間的には若くて未熟な自分にできることって本当にあるのかってことをぐるぐる考えてるときに、京都で演劇公演を観ました。本人が、本人だからこそできることをやってました。

そのときに、あ、なんだ、今の自分をそのままやればいいんだってちょっと楽になったのでそれをやることにします。

今がどういう時代かは、図書館に行って本でも読めば文字情報として入ってきます。でも、今を生きてる若者が何を感じているかっていうことは、その人の中にしかないわけ で、そういう、本じゃ絶対書いてないようなことを、人に喋ってみようじゃないか、それだけで何かの意味があるんじゃないかって思った。

自分たちが生きる理由を、演劇を作る行為を通じて考えよう、それを人に共有してみようという試みです。

演劇に固執する理由は、自分は演劇やらないと死ぬ!っていう思い込みからなので、本当にそうかな?ってことをひとつずつ紐解いてみよう、 でも演劇やる理由がなくなると死んじゃうので、紐解きながら演劇やれば死なないなっていうヘンテコな感じです。

演劇は異なる生に出会う場なのかもしれない

市川和樹

演劇ってなんだろう。
演劇を裸にしていくと最後に人が残ると演劇論には書いてある。
私が存在する。そしてその周りには複雑な世界があって、私たちのいる世界に対して意思表示する。声や身体の動きによって。 演劇とは"生きる"ことなのか?

作品を作る過程で哲学者みたいな自分が顔を出す。
なぜこの世の中に哲学があるんだろう。
人が知能と言語を手に入れたから?
争いを無くすため?
明確な答えなんて沢山ある(もしくは全くない)し別にいらない。
でも、世界がどのように存在しているのか深く考えないとコントロールされてしまう。

新しい言葉は死や僕らの感情と同じようにすぐ近くにある気がするし、見えていない新しい世界を見せてくれる。
だから、日々の感情、見えているものに対しての観察力を磨いて言葉にしていきたい。
今まで何かあった時に気軽に話せる場、議論できる場があったから思考が洗練されていった気がする。nanamomoがそういう場所になるのは良いなと思う。

相手を理解しようということは大事だと思う。
だから遠慮なく話したい。
意見を押し付けることは、狭い世界を形成しているだけだと思うし、正解がたった一つだなんてつまらない世界だなとも思う。
だからこそ、多様なんだけど、個々の部分が何かで結ばれていたらいい世界だなと思う。
それが例えば平和という概念とかでも。

演劇は異なる生に出会う場なのかもしれない。